問題はステロイドの是非ではない。
競技設計そのものにある。
最近、ボディビルダーの身体を見ると違和感を覚えるようになった。とくに薬物を用いて極限まで肥大化させた身体に対しては(それがどんなにハードなトレーニングや高度な栄養管理、十分な睡眠といった良質なルーティンに支えられているとしても)、美しさを感じない。
ただし誤解のないように先に書いておく。これは特定の個人を批判するものではない。
それぞれの選手は本人なりに命を懸けてやっているのであって、そこに敬意は持つ。
私が批判したいのはあくまで構造である。ボディビルという営みが構造として何を含んでしまっているか。その話だ。
そもそも、どんな身体に美しさを感じるかは人それぞれだ。武道家の身体には武道家の美があり、職人の身体には職人の美がある。農作業を続けた人の身体にも、その仕事の刻まれた美がある。身体の美は本来、多様であって当然のものだ。
そもそも美とは主観的なものである。黄金比のような数学的に整った比率は存在するが、それすら好みによる。誰もが同じ比率を最も美しいと感じるわけではない。
ところがボディビルという競技は、この多様性を最初から否定している。低体脂肪かつ筋骨隆々の身体こそ美である、という美的価値を競技側が固定しているのだ。
フィジークやクラシックフィジークも基本構造は同じで、筋肉量と絞り込みの両方を極限まで突き詰めた状態が評価の中核に据えられている。どちらか片方では勝てない。筋肉量が多くても体脂肪が高ければ評価されないし、絞れていても筋肉量が少なければ評価されない。両方の極限値を同時に達成することが要求される。
なぜこのような不自然な固定化が起こるのか。本来手段であるはずの身体を、目的そのものにしてしまったからだ。
身体は本来、何かを成し遂げるための手段である。働くため、考えるため、誰かを支えるため、生きるための道具だ。手段としての身体を評価するなら、その人が果たすべき目的によって基準が変わる。武道家には武道家の身体、職人には職人の身体が最適となる。だから多様性が成立する。
ところが身体それ自体を目的にすると、評価基準を立てるための上位の参照点がなくなる。何のための身体かという問いが消えるからだ。すると評価軸は「身体それ自体のスペック」に置かれるしかない。そして観察可能で数値化しやすいスペックとして選ばれたのが、筋肉量と体脂肪率だった。これが基準の固定化を必然的に生んだ。
つまりボディビル競技は「身体の美しさを競う」と称しているが、実態は「あらかじめ決められたひとつの美的基準への到達度を競う」競技である。多様であるはずの美を、単一の方向に強制的に収束させている。この構造は、身体を目的化した瞬間に決定づけられている。
さらに問題なのは、その上で勝つ方法が単線的だということだ。筋肉の大きさ、対称性、絞り具合という評価軸が決まっているため、トレーニング・栄養・回復、必要なら薬理、これらをどこまで突き詰められるかで順位が決まる。武道のように相手との相互作用も、技の体系の深化もない。だから選手全員が同じベクトルに向かって進むことになり、多様性の余地がそもそも構造的に存在しない。
身体は本来、その人の天命や生き方を反映する多様なものであるはずだ。それを「低体脂肪と筋骨隆々の同時達成度」という限られた評価軸の上でのスコア競争に落とし込む。ここに構造の最初の歪みがある。そしてこの歪みは、手段の目的化という根本的な錯誤から派生している。
第1章で述べた競技設計の歪みは、第2章でさらに深刻な形をとる。
まずナチュラル選手であっても、競技に本気で取り組めば身体は確実に蝕まれていく。体脂肪を極限まで落とすコンテスト減量、意図的なバルクアップ、コンテスト直前に水分を抜く脱水操作、極端な体重サイクル。これらは競技ルールが要求する以上、避けがたい。身体が本来保とうとしている健康な状態は、確実に削られていく。
そしてその延長線上にあるのがステロイドだ。ステロイドは筋肥大を加速させるが、同時に身体の多くの臓器に不可逆のダメージを与える。心臓は徐々に肥大して機能が落ち、腎臓と肝臓の濾過機能も損なわれていく。男性ホルモンの自然分泌は止まり、再開しないこともある。つまり競技で上位を狙う動機が、そのまま身体を壊す行為への動機と重なる。
「ケア剤で対応できる」という反論はあるが、これにも限界がある。身体には、一度壊れたら元に戻らない組織がある。心臓の筋肉、腎臓の濾過装置、血管の内側の細胞。これらが受けたダメージは、後からどんなにケアしても回復しない。
肝臓のように再生する臓器もあるが、人体全体としては「壊れたら戻らない部分」のほうが多い。だから事後ケアで競技負荷を相殺するという発想自体が、生理学的に成立しない。
ここまでの構造に、気づいている選手と気づいていない選手がいる。
気づいていない選手を悪く言う気はない。自分が置かれた文化の中で一生懸命やっているのであって、構造を相対化する視点を持たないままに来ただけだ。これは本人の落ち度ではない。周囲のジム仲間も先輩選手も同じ前提で動いており、その内側にいる限り構造の歪みは見えにくい。
問題は気づいている場合だ。
気づいた上で続けるなら、論理的に整合する選択がひとつある。「自分は健康を捨てた。競技者として記録に挑戦しているだけだ」と公言することだ。F1ドライバーが事故死のリスクを承知で走るのと同じ構造を、明示的に引き受ける。これなら矛盾はない。価値観の選択として、整合している。
しかし業界の言説を見ていると、この立場を明確に取る人は少ない。多くは健康への深刻な影響を否認したまま競技を続ける。
業界でよく聞かれるのは、こうした言葉だ。
健康と肥大の両方を成立させたいという願望が、こうした言葉を選ばせる。しかしそれは生理学的に不可能だ。どんなに管理しても、薬物と極端な体重操作は確実に身体を蝕む。「両立できている」という認識は、いずれ事実によって裏切られる。健康への影響を否認したまま競技を続けた選手は、結局のところ健康を失う。
第3章の構造の上に、別レイヤーの問題が重なる。自分の身体を商品化して他人に勧めるという問題だ。
自分は薬物を使って身体を作っているのに、サプリメントを開発して販売する。トレーニング指導をする。動画やSNSで筋肥大の方法を発信する。受け取る側の若者や一般人は、そのサプリやトレーニングを真似すれば同じ身体になれるかもしれないと期待する。
しかし実際にはその身体は薬物の助けで成立しているのであって、サプリやトレーニングだけでは到達できない。到達不可能な目標を、到達可能であるかのように見せて商品化していることになる。
ここでF1との対比が効いてくる。レーシングドライバーが用品やサプリを売っても、F1カーがなければ普通の人は同じ世界に踏み込めないと知っている。だから真似されない。
しかしボディビルダーの場合、ジムとサプリさえあれば同じ道を歩めるかのように見えてしまう。だから影響の与え方が違う。憧れさせる相手のなかには、青少年や、判断材料の少ない大人もいる。彼らを誤解の入口に立たせるという構造がある。
ボディビルが向かう先は、構造として決まっている。
消費されて終わるということだ。
道があるものは生涯にわたって深化できる。技術の背後に普遍原理があり、その習熟が人格の成熟と接続する。次世代に伝承できる体系を持つ。武道、茶道、書道、職人技、それぞれの専門領域。すべてに共通する。だから時間軸で深まっていく。
競技ボディビルにはこの条件が揃わない。生涯継続できない。健康が破綻するか、加齢で身体が維持できなくなる時期が早く来る。背後の原理が「より大きく」しかなく、深化の方向が一本道で終わる。肥大化と人格成熟は別軸であり、構造的に接続しない。伝承されるものも結局は「より重く、より多く」の単線的な蓄積に留まり、世代を超えて深まる体系にならない。
道があるものは美しく、続き、誰かに渡せる。道がないものは消費されて終わる。身体を扱う行為のなかには道として成立するものが多くある。武道家・職人・舞踊家・書家。身体を通じて深まる道は人類史に数多くある。ボディビルが道にならないのは、競技設計そのものが道の成立条件を満たさないからである。
ボディビルが構造として抱える問題を整理する。
ステロイドの有無はこの結論を変えない。問題の核心は薬の使用ではなく、競技設計そのものにあるからだ。
最後に、気づいた選手の選択について書いておく。本当は書きたくない。それでも私の目には、こう映ってしまう。
気づいた上で健康への影響を否認したまま続けるなら、それは馬鹿だと思う。気づいているのに直視できず、選択することからも逃げているなら、それは弱虫だと思う。感情的に罵倒したいのではない。論理的に成立してしまう評価として、書かざるを得ない。
もしこの結論に納得がいかないなら、ぜひ反論を考えてみてほしい。その思考の過程そのものが、自分の身体と人生をどう扱うかを問い直す機会になる。反論の中身がどのようなものであれ、それがあなたの健康的な人生に接続されることを願っている。
健康放棄を明示的に引き受けて競技に挑む選手には、むしろ敬意を抱く。私とは価値観が違うが、覚悟を決めて命を賭けて取り組むそのプロセス自体は否定しないし、ひとつの生き方として尊重する。
気づいていない選手も悪く言うつもりはない。ジムの仲間や先輩がみな同じやり方で取り組んでいる環境にいれば、そのやり方を疑う機会はなかなか訪れない。そのなかで真剣に努力している人には、それぞれの背景と理由がある。