自由意志なき世界において、
夢と計画は持つべきか
―― 結論から言えば、持つべきだ。ただし、いくつもの前提がある
箭内宏紀|実存科学研究所
夢が描けなくなったのは、力を失ったからではない。
夢を必要としない場所に、辿り着いたからだった。
親愛なるあなたへ
今日は、ひとつの問いについて書きたい。
自由意志がないのだとしたら、夢や計画を持つことに、意味はあるのだろうか。持つべきなのだろうか。
それとも、どうせ自分では何も選べないのだから、いっそ手放してしまったほうがいいのだろうか。
結論から書いておく。持つべきだ、と私は思う。ただし、そのままの形ではない。
そしてこの結論には、いくつもの前提がある。前提を抜きにこの一行だけを受け取ると、おそらく誤解する。
だからこのコラムでは、私がこの結論に辿り着くまでに踏んできた思考を、はじめから順に辿っていきたい。少し長い手紙になる。
十代の頃、二十代の頃、私には夢があった。
なりたいものも、欲しいものも、いくらでも紙に書けた。アスリート、弁護士、成功者。
手に入れたいものを並べれば、未来はその明るさで満ちていた。リストはいつも長くて、書いても書いても、終わらなかった。
ところが、三十代の半ばにさしかかったあたりから、それが描けなくなった。
最初は、これを喪失だと思っていた。情熱が枯れたのだとか、若さを失ったのだとか。
どうやら自分は、夢を見る力をなくした、つまらない人間になってしまったらしい、と。しばらくは、そのことを少し寂しく思っていた。
でも、そうではなかった。
正直に書いておくと、若い頃に私が欲しがっていたものは、それなりにわかりやすいものだった。
高級な時計。誰が見ても成功とわかる記号。物質的な豊かさ。そういうものを手に入れた自分を、繰り返し思い描いていた。
ところが、いつの頃からか、私の関心は別の方角に向きはじめた。悟りとか、真理とか、自分という存在は結局のところ何なのか、というような問いだ。
最初は、ほんの好奇心だったと思う。だが、その方角をじっと見つめているうちに、不思議なことが起きた。
かつてあれほど欲しがっていたものが、少しずつ色褪せていったのだ。手に入れたいという熱が、静かに引いていった。
誰かに勝ちたいとか、贅沢をしたいとか、そういう熱が、気づくと、ほとんど残っていなかった。
世界中の美味いものを食べたいとも、もう思わない。今の暮らしが、このまま続けばいい。そう思うようになっていた。
あの頃のリストを、今になって見つめ直してみると、書かれていたものは全部、同じ場所から来ていたことがわかる。
欠乏だ。
今ここに何かが足りない。だから、その足りなさを、未来に投げる。リストとは、つまり、欠乏の翻訳だった。
私はそれを、ひとつの言葉に名詞化した。自我の願望リスト、と。エゴが書いたリスト。自分の影が、形を変えて未来に滲み出したもの。
年齢とともに、そのリストは自然に短くなっていった。そしてある時期からは、私はそれを、意識的に消しにかかった。
これは本当に欲しいものか、と一行ずつ問うて、違うものに線を引いて、消していった。
受け身で減っていったのではない。積極的に、自分の手で消していったのだ。
あなたにも、覚えがあるだろうか。かつて長かったリストが、いつのまにか短くなっていることに。
ここで、私の立っている前提を書いておきたい。
Metaがある限り自由意志はない。これを私は、M⇒¬F、と書く。
少し説明がいる。私たちは、自分が自由に選んでいると思っている。夢も、進路も、欲しいものも、自分の意志で選んだものだと信じている。
だが、その選択を一段上(Meta)から眺めると、選ばせていたのは自分ではなく、構造のほうだった、ということが見えてくる。
私の自我の願望リストを書いていたのは、私ではなく、欠乏という構造だった。私はただ、それを自分の意志だと思い込んでいただけだった。
自由意志がないのなら、未来を自分の力でどうにかしようと足掻くことには、あまり意味がない。
いくら掴みにいっても、掴みにいくこと自体が構造の出力でしかないからだ。
だとすれば、私にできる最も合理的なことは、ひとつしかない。
自分が何のために在るのか、天命(生まれてきた意味・生きる目的)を悟り、それを日々、ただ全うすること。これだけだ。
未来を設計するのではなく、今この瞬間の自分を、まっとうに生きる。逆説的だが、自由意志がないという結論こそが、私をここへ連れてきた。
天命を悟る、というのは、私の中では「意味」の話だ。自分という存在が何を意味しているのかを、少しずつ言葉にしていく営み。
派手なことではない。今日この一日を、自分の意味に沿って生きる。それだけのことだ。
そして、それを日々全うしていると、ときどき、ふと笑いがこぼれる瞬間がある。何かを成し遂げたからではない。
ただ、構造の可笑しみのようなものが、不意に見えてしまう瞬間だ。その笑いが湧いたとき、永遠の今としか呼びようのないものが、立ち現れる。
これは「関係」の話でもある。永遠の今は、一人で力んで作るものではない。誰かと、あるいは世界と、ふっと繋がった瞬間に、向こうから訪れる。
私はいつも、これを「理想の未来につながる最高の今」と呼んでいる。理想の未来に、自分は確かに繋がっている。
そういう確信が持てる瞬間の、束のようなものだ。
そして、これはいつも結果論でしかない。「今ここにいよう」と狙って作れるものではない。
天命を全うしているうちに、気づくと、後から訪れている。そういう順序でしか、やってこない。
ここまで来ると、もう、夢はいらなくなる。今が満ちているなら、未来に何かを投影する必要がないからだ。
夢が描けなくなったのは、力を失ったからではない。
夢を必要としない場所に、辿り着いたからだった。
あなたが今、夢を描けないでいるなら、ひょっとすると、同じ場所の近くにいるのかもしれない。
では、人生から計画が消えるのかというと、そうではない。むしろ、ここから、これまでとは全く違う計画が始まる。
自我の願望リストが「こうなりたい」から出発するのに対して、新しい計画は「自分はこういう仕様でできている」から出発する。
欲しいものから逆算するのではなく、自分の設計図を読んで、それに沿って生きるための計画。
未来を保証するための計画ではなく、自分が自分であり続けるための器。
私はこれを、メタ・ライフ・プランと名詞化した。
なぜこんな考えに至ったのか。それは、ここまで書いてきた通りだ。
自由意志がないという認識論に行き着き、その上で、天命を悟り日々を全うすることが最も合理的だと結論したから。
その合理を、人生全体の長さに引き伸ばすと、メタ・ライフ・プランになる。
願望には、どこにも入口がない。すべてが、自分の仕様から逆算される。それが、自我の願望リストとの、決定的な違いだ。
とはいえ、自由意志がなく、未来も保証されない世界を、それでも楽しんで生きるには、何かしらの指針がいる。
そこで私は、先人の知恵を借りることにした。一人で考え出せるものなど、たかが知れている。
だが幸い、人類は数千年をかけて、自己を読み、自己を律するための知恵を積み上げてきてくれた。
インド占星術、西洋占星術。武士道、大和魂、仏教。それぞれは、ひとつの視点にすぎない。
けれど、何千年も淘汰を生き延びてきた視点には、それだけの理由がある。私はそれを、ありがたく使わせてもらう。
その中でも、自分という存在の取扱説明書として、私が最もよく使うのが、占星術だ。
念のため言っておくと、私は占いにハマっているわけではない。星に未来を当ててもらいたいのでもない。
星は「こうなりたい」を肯定してくれない。「あなたはこういう構造でできている」としか言わない。だからいい。
願望が紛れ込む余地が、少し減る。自我の願望を排して、自己の仕様だけを読む。
Metaを可読化するための、ひとつの言語装置として、私は星を使う。
仕様を読み、そこから天命を悟り、日々を全うする。その器として、メタ・ライフ・プランを組む。今、私がやっているのは、そういうことだ。
そろそろ、最初の問いに戻ろう。自由意志がないのに、夢や計画を持つべきか。
私の答えは、持つべきだ、だった。ただし、自我の願望リストとしてではない。欠乏が書かせる、未来への投影としてではない。
自分の仕様から立てる、メタ・ライフ・プランとして。持つべきものの中身が、入れ替わるのだ。
古い意味での夢は手放し、新しい意味での計画を持つ。それが、ここまで辿ってきた思考の、ひとまずの結論だ。
ところで、肝心の「どうやってメタ・ライフ・プランを作るのか」を、私はこの手紙にほとんど書いていない。
書いていない、というより、書けないのだ。
理由は三つある。
ひとつ。これをひとつ組み上げるのには、途方もない時間と手間がかかる。星を何枚も読み解くだけでも相当なものだが、それだけでは到底足りない。
ふたつ。そもそも「自由意志がない」という前提や、ここまで書いてきたいくつもの理論を、先に分かち合っておかなければ、作ったところで意味をなさない。
土台のない場所に、器は建たない。
みっつ。これがいちばん大きいのだが、星を読むだけでは、その人の仕様は見えてこない。
その人がこれまでの人生でどんな困難を乗り越えてきたのか。いちばん輝いていた瞬間は、どういうものだったのか。
そういう「語り」を、時間をかけて聞かせてもらう必要がある。
仕様というものは、星と、その人自身の物語の、両方からしか立ち上がってこない。
だから、メタ・ライフ・プランそのものを組む作業は、私の場合、セッションに来てくれた人とだけ、一対一でやっている。
ただ、その手前にある理論的な部分(自由意志のこと、天命のこと、永遠の今のこと)は、私の公式サイトに、ひと通り書いて置いてある。
もし興味があれば、覗いてみてほしい。248年後にこのウェブサイトが残っているかどうかは、もう祈るしかないのだけれど(笑)。
そして、親愛なるあなたへ
もしあなたが、かつての私のように、夢を描けなくなって、それを寂しく思っているのなら。
それは、たぶん、終わりではない。自我の願望リストが、静かに閉じただけだ。
そしてその先には、エゴに基づかない、もっと静かな計画が待っている。あなたの仕様に沿った、あなたがあなたであり続けるための計画が。
楽しみは、その計画の目的ではない。目的にすると、逃げていく。
ただ、自分が自分であることを日々全うしていると、どうやら、楽しみは結果として、後からついてくるらしい。
私は今、そのことを、少しずつ確かめている最中だ。
今日は、このへんにしておく。
愛しかない。
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