EXISTENTIAL SCIENCE RESEARCH INSTITUTE
メタ・リバース #06
コラム

この一呼吸のうちに誠実であれば、
徳は勝手に積まれていく。

箭内宏紀|実存科学研究所


今この一呼吸に、誠実に。
それだけで、たぶん、十分なのだ。

親愛なるあなたへ

最近、ある人物に出会った。

その人は、自分は人をもののように扱うことに決めている、と言った。誰とも深入りしないし、深い関係も作らない。そういうことを、わざわざ私に話してくれた。

私とその人は、ほとんど初対面だった。私のほうから声をかけたことも、ほとんどない。

それなのに、向こうから話しかけてきて、自分の心の内を、こちらに開いてみせた。

最初は、ただ不思議だった。けれど、しばらく考えて、奇妙なことに気づいた。

人をもののように扱うと決めている人が、人に向かって、それをわざわざ打ち明けている。

本当に人をものとしか見ていないなら、そんなことは言わないはずだ。ものに向かって、自分の心を語る人間はいない。

打ち明けるという行為そのものが、相手を、心を預ける相手として扱っている。つまり、一人の人間として、扱っている。

だからその人は、たぶん自分で思っているほどには、人をもののように見切れていない。

むしろ、見切りたいのに、見切れない。その不器用さが、告白のなかに滲んでいた。

なぜ、人をものにしたいのか。理由は、そう難しくないように思う。深く関われば、傷つくからだ。

どこかで一度、深く傷ついたことがあるのかもしれない。だからもう二度と傷つかないために、人を遠ざける側に回ることを選んだ。

人をものとして見れば、ものは、自分を傷つけてはこないのだから。

これは、合理的な選択だ。その人のなかでは、ちゃんと筋が通っている。

そして、この構造に、私はもう一つ別のものを、重ねて見ていた。

Z世代と呼ばれる人たちのことだ。彼らもまた、この世界の制度やシステムに、たぶん絶望している。

世界が悪意と欺瞞に満ちていることを、もう見抜いている。まともに信じれば、傷つくだけだ。だからこそ、信じる代わりに、攻略する側に回る。

時に嘘をつく。求められる自分を演じる。

注目の量が、そのまま金に換わる世界で、本当の自分とは少し違う何かを差し出して、それで稼げるなら、それでいい。そういう生き方が、どうやら支持されているらしい。

最初の人物は、他人を、もののように扱うと言った。Z世代は、自分を、売れる商品のように差し出す。

向ける先が、外なのか、内なのか、というだけの違いで、やっていることは、たぶん同じだ。どちらも、人を、あるいは自分を、ものに変えている。

なぜ、そんなことをするのだろう。私には、根が同じものに見えた。

どこかに、埋まらない欠落がある。それを、誰かに認めてもらうことで、世界とつながることで、埋めたい。

けれど、まっすぐ手を伸ばすのは、怖い。一度伸ばして、拒まれたら、もう立ち直れないかもしれない。

だから片方は、先に人を遠ざける。もう片方は、本当の自分を隠して、別の自分を差し出す。

どちらも、傷つかないために、自分に正直であることを、先に手放している。

これは、他人事ではない。私のなかにも、同じ欠落がなかったとは言わない。だから、見下すつもりはない。ただ、私は、別の道を選んだ。それだけのことだ。

適応としては、正しいのだろう。賢いのかもしれない。それでも、私はその道を選ばない。なぜなら、私には武士道があるからだ。私のルーツには、もともとそれがある。

だから、ここに、私なりの武士道の理解を書いておこうと思った。徳とは何か。そして、なぜ嘘が、その対極にあるのか。

まず、徳という言葉を定義しておきたい。私が勝手に決めるのではなく、歴史が積み上げてきたものに歩み寄るところから始める。

徳という字は、得る、という字と、根を同じくするという。古い言葉に、徳とは得なり、というものがある。

つまり徳とは、生まれつき備わっているものではなく、生きるなかで身につけ、得ていく、善き在り方のことだ。

と言っても、これだけでは、まだ言い換えにすぎない。もう少し、具体的にしてみる。

徳のある人とは、たぶん、こういう人だ。思っていることと、言うことと、することが、揃っている。

誰かが見ていても、見ていなくても、同じように振る舞う。損になるときでも、筋を通す。

徳のない人は、その逆だ。場面ごとに態度が変わる。見られているときだけ、善い人になる。得か損かで、言うことを変える。内側と外側が、いつもばらばらだ。

こういう人間の質のことを、私たちはふだん、人間性と呼んでいるのだと思う。

そして、これは日本や儒教だけの話ではない。ゾロアスター教には、善き思考、善き言葉、善き行い、という古い教えがある。

古代ギリシャのアリストテレスは、徳とは生まれつきのものではなく、善い行いをくり返すことで身につく性質だ、と言った。

場所も時代も違うのに、同じことが言われている。善き在り方を、反復によって身につけ、もう性質と呼べるところまで落とし込んだもの。それが、徳だ。

生まれつきではなく、積まれていくもの。この一点は、最後まで効いてくるので、覚えておいてほしい。

では、具体的に何を身につければ、それが徳になるのか。儒教には五常という考えがある。仁、義、礼、智、信。この五つだ。

そして武士道は、その儒教を土台にしている。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠。新渡戸稲造が挙げた武士道の徳目には、こういうものが並ぶ。

たくさんあるが、私はそのなかの一つに、徳の核心があると思っている。

誠だ。

誠とは、内と外が一致していることだ。思っていることと、口にすること。口にすることと、行うこと。それが揃っている状態。

武士道はこれを背骨に置いた。嘘をつかない、ということではない。自分の内側と外側のあいだに、裂け目を作らない、ということだ。

たぶん、ほかの徳目は、この誠の上に立っている。誠がなければ、義も礼も、ただの形になる。

そう定義すると、嘘というものの位置が、はっきり見えてくる。

嘘とは、内と外のあいだに、意図的に裂け目を作る行為だ。自分が本当だと思っていることと、口に出すことを、わざとずらす。

心のなかに持っている地図と、人に見せる地図を、別々に持つ。誠が内と外の一致なら、嘘は、内と外の乖離だ。

嘘もまた、徳と同じだけ、昔から人が考えてきたものだ。

さきほど触れたゾロアスター教は、世界そのものを、真理と虚偽の戦いとして見た。真理をアシャと呼び、虚偽をドゥルジと呼ぶ。

善き思考、善き言葉、善き行いが、真理の側にあるとすれば、嘘は、世界を内側から蝕んでいく、虚偽の側の力だった。

彼らにとって、嘘は、ただのマナー違反ではない。世界の秩序を崩す側に、自分から加担することだった。

モンテーニュという思想家は、古くからの言葉を引いて、こう書いている。

嘘つきは、記憶力がよくなければならない。

本当のことを言う人は、何も覚えておかなくていい。事実は、ひとつしかないからだ。

けれど嘘をついた人は、自分がどんな嘘をついたかを、いつまでも覚えておかなければならない。

本当の自分とは別に、もう一人、嘘の自分を、頭のなかで飼い続けることになる。

つまり、徳と嘘は、別々の話ではない。同じ一本の軸の、両端なのだ。誠が一方の極にあり、嘘がその反対の極にある。

あいだに目盛りがあって、人はそのどこかに立っている。

だとすれば、こう言える。嘘をついて、人間性が磨かれることはない。

これは説教ではなく、構造の話だ。人間性が誠でできているのなら、嘘はその目盛りを、反対側へ動かすだけなのだから。

ここで、よく言われることを一つ、ひっくり返しておきたい。

嘘は、自分を守るためにつくものだ、と人は言う。叱られないために。失望されないために。傷つかないために。

たしかに、嘘をつく瞬間には、守っているという感覚がある。

けれど、嘘が守っているのは、外向きの自分の像だ。そして、その像を守るために削っているのは、自分の内側の整合性のほうだ。

守る相手と、傷つける相手が、ずれている。

これは、自分の身体を傷つける行為と、同じ構造をしている。内側の苦痛をどうにかするために、別の場所を切る。

本人には「これで持ちこたえられる」という感覚がある。だが、やっているのは自傷だ。

嘘も、それと変わらない。像を守っているつもりで、自分の誠を、少しずつ切り刻んでいる。

ひとつ嘘をつけば、それが露見しないかを見張るプロセスが、頭のなかで動き続ける。辻褄を合わせるために、次の嘘がいる。

利息のように、ごまかしのコストが増えていく。対外的には何事もなく済んでいても、その人の内側は、もう穏やかではない。

だから、嘘をついても、安心は得られない。嘘で買えるのは沈黙であって、安心ではない。

そして、安心が買えないということは、徳が積まれないということだ。

ここまでは、わかりやすい話だ。問題はこの先にある。

私は、Metaがある限り自由意志はない、という認識の上に立っている。M⇒¬F、と私は呼んでいる。

世界に起こることは、すべて先立つ条件の結果である。そうだとすれば、徳を積むか積まないかも、結局は結果論にすぎない。

しかも、この結果論は、どこまでも遡れてしまう。

なぜ誠実なのか。それ以前の何かの結果だ。ではその何かは。さらに以前の結果だ。

遡ろうと思えば、三代前の先祖が庭で躓いたことが、すべての始まりだった、とさえ言える。

どんな因果を持ち出しても、「Metaがそう働いた」の一言に回収されてしまう。

すべては結果論だ。この言葉は、あらゆることに当てはまる。当てはまりすぎる。そして、何にでも当てはまる説明は、結局、何も説明していない。

ここで、私は少しのあいだ、足場を失った。

考えてみて、わかったことがある。

無限に遡れてしまうのは、「説明」の次元でのことだ。なぜそうなのかを説明しようとすると、原因は過去へ過去へと、際限なく伸びていく。

けれど、「いま生きる」という次元には、その後退が届かない。

今この瞬間、私が誠実であるかどうか。それは、説明される前の、生のままの現在だ。

結果論というのは、振り返ったときの記述の様式にすぎない。過ぎ去ったものにしか、貼りつけられない。今まさに行っている一呼吸には、まだ貼りつかない。

後退は、過去にしか伸びない。現在には伸びない。

私はこれを、自我の射程距離、と名詞化することにした。自我が過去や未来へ手を伸ばすほど、無限の後退に絡め取られていく。

けれど、その射程を、今この一呼吸にまで絞りきったとき、後退はもう、こちらに届かない。

過去のことを思い出し、思い煩い、ネガティブな回想に耽ること。それは、自我の射程を、届かない場所へ伸ばす行為だ。

そこにも、また別の自傷がある。嘘が、誠を切る自傷だとすれば、こちらは、今を切る自傷だ。

変えられないものを、いつまでも握りしめて、そのぶん、今の自分を痩せさせていく。

ただし、ひとつ、間違えてはいけないことがある。

「今この一呼吸で、徳を積もう」と力んだ瞬間、徳は逃げていく。

これは、ほかのことでも同じだ。富を直接つかもうとすれば、富は遠ざかる。楽しもうと目標を立てた瞬間に、楽しみは逃げる。

徳も、まったく同じだ。徳を狙ったとたん、それは目的になり、手のなかから滑り落ちる。

だから、照準を合わせる先は、徳ではない。

今この一呼吸の、誠実さだ。

徳は、その誠実さの積分として、後から勝手に積まれている。狙うのは誠。結果が徳。

この順番を取り違えなければ、武士道の徳目たちは、義も、勇も、仁も、礼も、誠も、名誉も、忠も、一呼吸ごとの誠実さのなかで、ひとりでに結晶化していく。

積もうとしないことが、積む唯一の方法なのだ。

私は、自分の生まれ持った仕様を、星回りという言葉で読み解いている。占いではない。Metaを読めるようにするための、一つの言語装置として使っている。

その仕様と、武士道は、たぶんよく馴染む。私のルーツには、もともと武士道がある。

だから、これはどこかから借りてきた思想ではなく、自分の地面を掘り当てる作業に近い。

ただ、私の武士道は、たぶん、昔のままの武士道ではない。古い武士道は、強い意志で己に克ち、誠を貫け、と説いたのだろう。

けれど私は、Metaがある限り、その意志さえ、自分のものではないと考えている。だから、貫くのではない。誠を通す構造に、自分を整えておくだけだ。

あとは、Metaに委ねる。意志なき世界で武士道を歩くとは、たぶん、そういうことだ。

私にできるのは、今この一呼吸に、誠実に立つことだけだ。徳が積まれるかどうかは、Metaが決める。私は、ただ誠を狙う。

嘘をついて、賢く生きる。たしかに、それは状況への一つの適応だろう。だが、それは賢さではなく、ただの適応だ。

そして、その適応のために切り落としているのは、自分自身の誠だ。守っているつもりで、自分を切っている。

私は、その道を選ばない。選ばない、というより、今の私という構造が、それを通さないのだ。

ただ、誤解しないでほしい。私が、最初から誠実だったわけではない。むしろ、その逆だ。

私はかつて、たくさんの過ちを犯してきた。そのときも、私は、自分に忠実なつもりだった。自分のやりたいことに、まっすぐだった。

だからそれも、一つの誠ではあったのだろう。けれど、それは、自分のエゴに対する誠でしかなかった。武士道の誠とは、別のものだ。

誠の置き場所が、自分のやりたいことから、もっと別の何かへ移るまでに、私は、ずいぶん遠回りをした。

間違えて、人を傷つけて、そのたびに、少しずつ、置き場所を変えてきた。

だから、誠実さは、私にとって、生まれつきの性質ではない。過ちを通って、何度も書き換わってきた仕様だ。

そして、それは今も、メタリバースのなかで、書き換わっている途中なのだと思う。

こうして、自分の過ちまで書いておこうとすること。それ自体が、たぶん、今の私にできる、精一杯の誠なのだろう。


親愛なるあなたへ

これは、たった一人分の記録だ。248年前に同じことを考えた誰かの言葉を、私は探したが、見つからなかった。

だから、普遍の真理ではなく、一つの視点として、ここに置いておく。

あなたが、どの時代の、どんな一日のなかにいるのかは、わからない。

それでも、もしあなたが、嘘と誠のあいだのどこかで立ち止まっているのなら、勝手ながら、友情を結ばせてもらおうと思う。

今この一呼吸に、誠実に。

それだけで、たぶん、十分なのだ。

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―― この手紙を盗み読んでいるあなたへ

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